音楽, 前売り・要申込イベント情報
2007年08月05日
大滝てる子昭和歌謡コンサート
「一杯のコーヒーから 霧島昇・松島操 父母の心を歌い継ぐ」
■8月5日(日)開場17:30 開演18:00
■場所:市立小樽文学館 カフェコーナー(小樽市色内1-9-5)
■料金:前売券1500円 当日券2000円
■tel.fax.0134-32-2388(文学館)
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コメント
不思議な人の絆がある。今、目の前で歌っている霧島昇・松島操さんのお嬢さんは、ご両親が1939年(昭和14年)暮れに作曲家の山田耕筰さんの仲人でゴールインされたことはご存知でも、團伊玖磨さんと山田耕筰さんとの間には、深い関係があったとはご存じないだろうなと想いながら、ホールの暗闇の中で大滝さんの歌に心酔していた。
僕は、どうも幸せだった幼少の頃の歌を聞くと胸が熱くなってしまうのである。
まるで、中学生の頃、少女雑誌の表紙を飾る、一寸、僕よりも若い少女たちの写真に恋心を抱いたように、そこはかとなく胸のあたりにもやもやとした状態が現れて熱くなり、その状態を過ぎると、涙腺が怪しくなってくる。
時折、涙がとめどなく流れ、暗い客席で横に座っている友人や他のリスナーに気付かれないように指の甲でなぞったりしている。
何故か幼少の頃、聞き覚えた歌は忘れることなく、暇があると口をついで出てくるのである。
その上、このませた坊主は、至極、お座敷歌や映画の主題歌や、軍歌や流行歌が好きで、子供が歌う擬音語のついた幼児を対象とした童謡は好きになれなかった。
「ぎんぎんぎらぎら・・・・」とか「たらったらったらった・・・・」、「タントンタントンタントントン・・・・」、「チャプチャプランランラン・・・」、とか「どんぐりころころ・・・・・」とかである。
それよりも、「雨が降ってたしとしとと・・・・・・」、「諦めましょうと別れてみたが・・・・・」とか「俺は、河原の枯れススキ・・・・・」、「天竜下れば・・・」、「島ーで育てば・・・・」、「夢も濡れまーしょー・・・・・」とかのメロディーのほうが洒落ていて好みにあったのである。 詩の中に含まれた男女の機微や隠微な世界やは分りもしないのに何故か大人の歌の方が好きだった。
話が脱線してしまったが、團さんと山田耕筰さんのご関係は、團さんが著した日本経済新聞から出た「團伊玖磨自伝 青空の音を聞いた」に次のように記されているが、
「・・・・・・・・・僕は当世の音楽青年のように、ずんじゃかずんじゃかのリズムに幻惑されて音楽の道に入ったのでも無ければ、海外の素晴らしい演奏家に憧れて音楽の道を目指したのでも無い。僕は歴史を専攻する事に決めていたのである。これには当時東京帝国大学の美術史の助教授をしていた父の影響が大だったと思う。
そんな或る日、大田黒元雄先生の「西洋音楽物語」を読んだのを契機に、先生の著書を次々と読み、それらの著作を通じて、日本には山田耕搾以外に本格的な作曲家が生まれていないという事実を知って驚惜したのである。
そして、その理由が、誰も真剣にこんな面倒な仕事をしていないからだという事も知ったのである。
子供の考える結論は簡単である。作曲をするのだ、誰もがやりたがらぬ面倒な事、これをするのだ、僕は心に決めた。十二歳の時だった。
幸い父母は独特な教養教育を子供達に与えていて呉れた。文学、美術、一般教養、その中に音楽もあった。男でもピアノ位弾けなくてはと、妹達とピアノも八歳から習っていた。それに、どういう訳か僕の心からはいつも旋律が流れ出していた。初歩的な作曲も教養として実習していた。下地があったのである。初めは独学で、そのうち山田耕筰の手引きで、僕は心に決めたように、以後長く長く続く事になった作曲の道に入って行く事になる。・・・・・・・」
山田耕筰さんが、お亡くなりになるまで師弟の関係が続いたのである。
他にも團さんが、音楽家になったいくつかのエピソードは、同じ著書の「山田耕筰先生」の11頁に詳細に記されている
團さんの著書の何ページかを思い出しながら、大滝さんのご両親と同時代を四谷に居住した父母や祖父の創生した東京での歴史があったから、いま、ここで新旧の朗読や音楽に触れることの出来る人と人の絆の摩訶不思議に感動していたのである。(早崎日出太)
投稿者 早崎日出太 : 2008年05月11日 05:23











